美濃に生まれ、12歳の時に会津藩主の養子に。18歳で藩主となり、28歳の時に京都守護職を拝命、「壬生浪士組」を誕生させる。 孝明天皇からの信頼は非常に厚かったが、鳥羽・伏見の戦後その立場は暗転。会津での孤立無援のろう城戦の末官軍の軍門に下る。
江戸城登城禁止を伝えられ呆然と家訓の一節「大君の義…」とボソボソ呟くシーンはアドリブとのこと。
ほとんど無呼吸でした。顔が真っ赤になって血管が浮いてる状態でした。